アテフ誕生


アテフ誕生


アテフ・ハリム デビュー50周年! 9歳のデビューから数えてなんと演奏活動が“半世紀”を越えました。これを機に、アテフ・ハリムの歴史を少しずつ紐解いてみる事にいたしましょう。


1950年10月6日。アテフ・ハリムはエジプトのカイロで産声をあげました。
弁護士をしていたエジプト人のお父さんと、歯医者をしていたフランス人のお母さん。二人はパリの大学で出会ったそうです。
お父さんは、音楽が大好き。特に歌う事が好きで、本当は歌手になりたかったくらい。オペラのコーラスで歌ったり、自分で作曲したりしていました。プロの歌手のレコーディングに採用された事もあったそうです。
お母さんはフランスで歯科医の資格とり、結婚後もカイロで歯科医として仕事を続けました。仕事が大好きで、週の半分は富裕層を相手に歯の治療をしましたが、あとの半分は、貧しい人達の為にボランティアで働いていました。貧しい人々に歯の健康の大切さから教え、歯以外のことで相談にのることも多かったそうです。


お父さんの音楽好きの影響で、家の中ではいつもクラシックのレコードがかかっていました。
アテフが2才の頃、父親は、飽きずにずーっとレコードを聴いている息子を見て、「この子には音楽の才能があるかもしれない」と感じたそうです。それから、時々コンサートにも連れて行くようになりました。普通の子供は10分、20分じっとしていられないのに、アテフはちっとも飽きるような素振りをみせません。
それで、4才になった頃、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団がカイロに来た時、コンサート招聘の会社に頼み込んで(当時も未就学児はコンサート会場に入れませんでした)チケットを取り、一緒に聴きに行ったのです。その演奏に感動したアテフ、『あんなふう(ヴァイオリンのソリスト)になりたい』と言ったのだそうです。                            (つづく)

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ヴァイオリンのお稽古はまず“カタチ”から


ヴァイオリンのお稽古はまず“カタチ”から

5才の誕生日を待って、ヴァイオリンのレッスンに通うようになりました。イタリア人のミナト教授です。当時のヴァイオリンの先生として最高の方だったそうです。初めの日は、お母さんと一緒に先生の家まで行きました。でも、次の回からはひとりで通ったそうです。当時のカイロ、あんまり治安がよいとも思えませんが、お母さんも仕事で忙しく、ひとりで習いに行くしかなかったそうです。


初めてのレッスンの日、お母さんは5才の息子に言いました。
「ママが一緒に行くのは、これが最初で最後よ。行き方を覚えられる?」
「うん!」
初めての場所と、初めてのレッスンで、二重に緊張したことを今でも良く覚えているとアテフさん。
バスを乗り継ぎ、カイロ市内のイタリア人街にあるミナト先生のお宅に行きました。バイオリンの構え方や弓の持ち方など基本的なことを教えてもらい、帰路につきました。その日はお母さんと一緒でした。でもそれがホントに最初で最後。次回からは、ホントにひとりでバスを乗り換えて通ったのだそうです。5才で既に、ヴァイオリンへの情熱が人並みはずれ、先生宅への道中を恐いとも思わせず、まっしぐらに突き進ませたのです。



この写真は当時のもの。
イタリアの「BERTO」というブランドの子供服。
ベルリンフィルのコンサートに魅せられてヴァイオリニストになると決めたアテフは、「ソリストは格好良くなくちゃ」と、ショーウィンドーで見つけた子供服に釘付け!
「レッスンにはこれで行く!」
とお母さんにおねだりしたら、
「ウチは総理大臣の家ではありませんよ。そんなお金はありません」
と一笑されます。(実際、大臣の子供も習いに来ていたらしい) お母さんはいつも長持ちしそうな丈夫で地味な洋服ばかり用意していました。(どこの母親も同じですね)
でもこの時ばかりは
「これじゃなきゃイヤだ!靴もこれがいい!」
とアテフも譲らない。お母さんと大喧嘩! それを聞いていたお父さんが、
「イタリアのデザイナーのものだし、(イタリア人の)ミナト先生にアピールするかもしれないよ」
と助け舟をだしてくれて、ゲットに成功 その時の満足度いっぱい、意気揚々の記念写真です。
                   (つづく)

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母の教え


母の教え

お父さんが音楽好きだったので、カイロに家にはピアノがありました。ヴァイオリンを習い始めたと同時に、ピアノのレッスンにも通ったそうです。イタリア人のストロロゴ先生。でも、既にヴァイオリンへの思いが強く、ピアノは1年くらいで止めてしまいました。
ストロロゴ先生「この子は、音感もしっかりしているから大丈夫。ヴァイオリンの方にパッションがあるようだから、そちらに進みなさい」と。でも数年後、先生のピアノ伴奏で共演が実現しました。


(6才の頃)


6才頃には、なんとバレエのレッスンにも行ってたといいます。でも、問題発生!!ある日両親がバレエの先生に呼び出されます。先生がおっしゃるには
「お宅のお子さんね~・・・、稽古中に直ぐに女の子に抱きついて困るんですよ。お稽古になりません」
事実上の破門です(笑)。その頃から女の子のことが大好きだったんですね。


今の子供たちは放課後毎日のように塾やお稽古ごとに通ってたりしますが、当時から ヴァイオリン+ピアノ+バレエ とは、全く忙しい子供でしたね。
いろいろなことを習わせてくれたのはきっと才能を見つけるようにと様々な選択肢を与えてくれたのでしょう。
「母がよく言っていました」とアテフさん。
「物やお金は盗まれたり不確かだけど、才能は誰も盗むことは出来ないのよ。才能を磨きなさい」
厳しいお母さんでしたし、いつも遅くまで仕事をしていて帰りは遅い。13才で親元を離れてしまったから、共に過ごした時間は少ないけれど、とても強い絆で結ばれていたそうです。


〜〜お母さんの教えの数々〜〜
「動きなさい(働きなさい)。お金はあなたのお尻の下に眠ってるのよ」
「夏トマトと生タマネギを食べていれば,病気にならない」
「風邪をひきかけたら、タイムを煎じてレモンと蜂蜜を入れて飲みなさい。」
他いろいろ・・・・。なるほど~~!
                     (つづく)

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デビューの日


デビューの日

ヴァイオリンを習い始めて4年が経とうとしていました。メキメキと腕を上げてきています。大きな劇場の舞台に立てるというので、猛練習で臨むことになりました。文字通り、血が滲むほど練習を重ねたのだそうです。左手の指から血が出てくるので、それに「赤チン」を塗って、また練習。左手は真っ赤になっていました。まさにレッドヴァイオリン(笑)


1959年10月6日、9才の誕生日。(1869年に建てられ、その翌々年ヴェルディのアイーダが初演されたという)カイロのオペラ劇場の大舞台でデビューを果たします。演目は「チゴイネルワイゼン」。9才の少年の演奏とは思えない程の卓越した技術と音楽性に、客席中が大歓声!ハイフェッツの再来と言われる感動的な演奏で、聴衆を魅了したのです。演奏後の舞台上でのインタビューで、「今日9才になりました」と答えた所、温かい拍手は更に大きな拍手になって鳴り止みませんでした。
                         (つづく)

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木曜日はTVレビュラー出演


木曜日はTVレギュラー出演

そのデビューコンサートの後、いろいろな所から出演依頼が舞い込むようになりました。
10才でカイロシンフォニー管弦楽団との共演を果たします。チェコ人の指揮者の元、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを演奏しました。


また、毎週木曜日には、テレビにレギュラー出演するようになります。子供達だけのオーケストラの番組が企画され、アテフ少年はその中心的演奏者として毎回出演。ソロも引き受けました。テレビ局はナイル川の畔にあり、撮影後に仲間達とボートに乗ったり、ファラフェル(ひよこマメをすりつぶしてボール状にして揚げたコロッケのような中東の食べ物)を皆で食べたり、とても楽しい思い出。


(9才の頃)


映画音楽の仕事もよく頼まれたそうです。生演奏はもちろん楽しいけれど、録音もとても面白い。大人に交じってオーケストラの中で演奏です。そんな経験も独立精神をより強いものにしていったようです。



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お父さんの思い出

お父さんの思い出

お父さんとのエピソードをひとつ。
12才になったアテフは、お父さんが飲んでいたウィスキーが気になって仕方ありませんでした。「どんな味がするんだろう??」と興味津々。 (気になり始めると、わかるまで追求する性格は今も変わっていません。)お父さんのウィスキーボトルから少~し飲んで、バレないように同じだけ水を入れておきました。何日か試しては、同じように水を入れておきました。
数日後、
お父さん「アテフ、今日時間あるかい?」
アテフ「あるよ。どうして?」
お父さん「じゃあ、いっしょに飲もうか」
アテフ「!!」
バレてたんですね~~。それ以来、成人するまでお酒に手をつけることは止めたそうです。。。


お父さん、とっても粋な人だったんですね。                                            (つづく)

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旅立ちの日

旅立ちの日

4月16日は、13才のアテフ少年が、フランスでヴァイオリンの勉強をする為エジプトを旅立った日。忘れられない一日でした。


9才でのデビューコンサートの後、一躍有名になり、オーケストラとの共演やテレビのレギュラー出演、映画音楽の録音などたくさん仕事が来るようになりました。でも、一日も早くクラシックの本場で勉強したいと10才の頃から考えていました。独立精神旺盛な少年でしたが、家族から「もう少し待ちなさい」「まだ早い」と言われ、ずっとその時期を伺っていました。家族としては、あまり早すぎると人格形成に障害があるかもしれないと考えていたようです。13才になった頃から、両親も根負けし、ようやく「伯母さん(お母さんのお姉さん)のいるパリなら」と親元を離れて勉強することを考えてくれるようになりました。パリ音楽院での勉強を目指して準備を始め、1964年4月16日アレクサンドリアの港から船で旅立つことになったのです。


その日は、朝からお母さんがサンドイッチをたくさん作っていました。「そんなに持たせても、船で食事も出るし、日持ちしないよ」というまわりの声をよそに、「いいから、好きにさせて」とお母さん。一心にサンドイッチを作っていたそうです。息子の為に何か出来ることをしたかったのでしょう。
妹達とはカイロの家でお別れをし、アノアおじさんが用意してくれた車で、お父さんお母さんと一緒にアレクサンドリアまで行きました。


たくさんのサンドイッチとオレンジを袋に詰めてアテフに手渡すお母さんの目に光るものが・・・。グレーと緑の混ざったような美しい瞳が潤んでいました。あんなに厳しく強かったお母さんの涙を、この時初めて見たのです。


母「これからは、誰も頼る人はいないんだよ。ひとりで出来る?」
アテフ「はい!」
と、しっかりうなづいたのでした。


船が出る前、お父さんはこっそり
「戻ってきたくなったらいつでも帰ってきなさい」
と言ってくれました。でもそれから10年間、エジプトに戻ることはありませんでした。


午後4時、ヴァイオリンケースを抱え、サンドイッチとオレンジの袋を持った痩せっぽちの少年を乗せたアレクサンドリア発ベネチア行きの客船は、汽笛を上げて地中海の海へと乗り出していきました
                          (つづく)

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船上でのコンサート

船上でのコンサート

ボーー! アレクサンドリアの港に汽笛が鳴り響きます。船の行き先はベネチア。
「しゅっぱーつ!」
見送りの人がだんだん小さくなっていきます。


シー、シー、シー・・・聞こえるは波の音だけ。「今、何時?」
見えるのは海と空だけ・・・「僕は今どこにいるの?」
4月と言ってもデッキの上はまだ肌寒い。
潮の香り・・・大きく揺れると気持ち悪くなって来る。
初めての孤独。。。


ふと、
「お父さんお母さんはどこにいるの?」
と見知らぬカップルが尋ねてきました。
「僕ひとりだよ。」
「へー!!そんなに小さいのに一人なの?」
と誰も信じません。13才にも見えないくらいの痩せっぽちの少年だったのです。
「ヴァイオリンの勉強をしにパリに行くんだ!」
「じゃあ、何か弾いてみて」
船上でのにわかコンサートに周りの人達も集まってきます。
チャイコフスキー作曲のヴァイオリンコンチェルトが響き渡りました♪
拍手大喝采!!


コンサートを聞いていた船長さんが、後で話しかけてきました。
「坊や、切符を見せてご覧!」
ポケットから取り出した3等デッキ席の切符を見ると、船長さんは直ぐさま
「Come here! これからここが君の部屋だよ」
連れて行かれたのは、なんと一等船室でした。船長さんの粋な計らい!!
デッキの上はそれでなくでも心細かったのですが、それからベネチアまでの数日間、思いがけず豪華な船室で船の旅を過ごすことができたのです。
まさしく、芸は身を助ける!!            
                        (つづく)

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ベネチア到着

ベネチア到着

4月16日にアレクサンドリアの港を発った船は、一度だけアテネに寄港して航海を続け、20日の夕刻ベネチア(ベニス)に到着しました。


乗客は、それぞれの行き先に向けて三々五々に船を後にしてゆきます。乗り継ぎの出発時間に合わせて翌21日までは、船内に滞在することができました。「トーマス・クック」(旅行代理店)が用意したパリ行きの汽車は、21日の12時発。アテフ少年は、生まれて初めての異国イタリア(寄港地アテネでは、船から降りませんでしたので)を歩いてみることにしました。





「有名なサン・マルコ広場に行ってみよう」という人達にくっついて街に出ました。
まるで“別の惑星”に来たみたい!!!それが第一印象でした。観光客も多くて、人々はいろいろな国の言葉を話しているよう。サンマルコ寺院、ドゥカーレ宮殿、鐘楼・・・と、どこをみても絵葉書のような風景。


身振り手振りでリンゴをひとつ買いました。

                        (つづく)

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汽車に乗ってパリへ

汽車に乗ってパリへ

4月21日正午、パリ行きの汽車に乗らなければなりません。5日間過ごした客船。船長さんにも別れの挨拶に行きました。
アテフ「ありがとうございました」
船長「きっと立派なヴァイオリニストになると信じているよ!」


港から駅まではゴンドラに乗りました。駅にたどり着いたはいいものの、どの汽車がパリに行くのかよくわかりません。



人々の声に聞き耳を立てていると、どこからか「パリ」という声が聞こえてきました。その人は神父さんのような格好をしています。


勇気を出してフランス語で尋ねてみました。
「神父様はパリに行かれるのですか?」
「そうだよ、我が息子」
(この人についていればパリまで行ける!)と確信し
「僕もです!!」
それからその神父様は、パリまでずっと向かい合わせで座ってくれました。
小太りの優しい神父様、たったひとりでエジプトから出てきた少年にいろいろ話をしてくれました。
「ひとりぼっちで寂しくないかい?」
「全然寂しくないです。ヴァイオリンの勉強に行くんです」
「そうかい・・・」
あたりは暗くなっていきます。汽車は山の中を通っているようです。途中の駅で、連結を切り離していました。間違った車両に乗っていたらスイスの方へ行ってしまうところだったと思うと、青くなりました。


何時頃国境を越えてフランスへ入ったのか覚えていません。気がつくとあたりは白々と明るくなってきています。
神父様は目の前にいました。


「そうだね、寂しくなんかないね。結局のところ人生はいつも独りだからね。。。」


そんな哲学っぽい話を聞きながら、刻々と汽車はパリに近づいてゆくのでした。  
                        (つづく)

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4月22日早朝パリ到着

4月22日早朝 パリ到着

22日の早朝、汽車はパリのリヨン駅に到着しました。
リヨン駅の時計 (c)Marc Palanard


アレクサンドリアを発ってから6回目の朝。 生まれて初めての長旅を終え、ようやく目的地にたどり着きました。 憧れのパリに到着です。


神父様のお陰で間違わずに汽車に乗れ、無事にパリまで来れたことに礼を言い、お別れをしました。
「メルシーボークー、マ ペール。オルヴォアー(ありがとうございました、神父様。さようなら)」
「我が息子に、神のご加護がありますように・・・」


リヨン駅構内 (c)Eric Pouhier


駅に荷物を預けてから、 メモを片手に伯母さんの家を目指します。まず地下鉄でシャルル・ド・ゴール・エトワール駅に行かなければなりません。いわゆる凱旋門(エトワール凱旋門)のあるエトワール広場の真下の駅です。そこからヴィクトル・ユーゴー通りを下った所に伯母さん(お母さんの姉)は住んでいました。





パリの朝、街がだんだん動き始めます。パン屋から漂うクロワッサン、パングリエ(トーストしたパン)、カフェオレの香り・・・。それが、アテフ少年初めての『フランスの香り』。
エジプトともベネチアとも違いました。『フランスの香り』=『夢の香り』 


4月22日、これから起こる信じられない出来事!忘れられない運命の日となりました。                                             (つづく)


                        (つづく)

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パリの伯母さんはどこに??

パリの伯母さんはどこに??

シャルル・ド・ゴール・エトワール駅で地下鉄を降りて、凱旋門を背に、ヴィクトル・ユーゴー通りを探します。伯母さんの家はその通りにあるのです。



エレガントで静かな通りを歩いていくと、その建物はありました。確かにメモにある伯母さんの住所です。
でも、なんだか様子がおかしいぞ?? 伯母さんの名前が見当たらない!!


立ち往生している所に、立派な紳士が運転手付の車に乗り込もうとその建物から出てきました。
恐る恐る話しかけると、
紳士「おー、そのマダムは確かにここに住んでいたよ。でも、確か数カ月前に南フランスに引越したはずだがな~」
アテフ「オーララー!! 」
何が何だかわかりません。アテフ、ピンチ! いったいどうしたらいいのでしょう???


紳士「これから出勤しなければならないから、とにかく私についてオフィスまで来なさい」


アテフは泣き出しそうなのをこらえながら、その紳士と一緒に車に乗りました。紳士はあのアパルトマンのオーナーらしく、ジョルジュ・サンクのオフィスに着くと伯母さんの引越し先の電話番号を調べて、直に電話してくれました。


伯母さん「アロー!  アテフ?!  ほんとに来たの?!」
どうやら当時の郵便事情が悪く、エジプトに住む妹からの手紙も上手く届いていなかったようです。夫の定年を機に南フランス(マルセイユ)に住むことになり、数ヶ月前に引越ししたばかりだったのです。


伯母さん「直に伯母さんの所にいらっしゃい!」
アテフ「・・・」
伯母さん「ひとりではいられないでしょう」
アテフ「・・・」


“パリでヴァイオリンの勉強に来たのに、南フランスになんか行きたくない!”と内心思ってはいても、13才ではパリに暮らすことは出来ません。保護者がいなければ強制的にエジプトに帰らされてしまいます。現金も靴の中に忍ばせてきた(笑)わずかなもしかありませんでした。


その一部始終を聞いていた紳士が、アテフにこう切り出しました。


「ウチの屋根裏部屋があいているから、しばらくそこに居なさい。何も心配しなくていいんだよ」
そう言って電話を代わり、伯母さんに「私の元で面倒みましょう」と話していました。


それから、運転手と一緒に、預けていたた荷物を取りにリヨン駅まで行き、先程の家に連れていってくれました。奥様が迎えていてくれました。


絶望から急転! ことの成り行きにただ驚くばかりです。


アテフのパリでの生活は、こうして始ったのです。                                       (つづく)

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屋根裏部屋

屋根裏部屋

ヴィクトル・ユーゴー通りの家は凱旋門から歩いて数分の所にあり、当時は本当に閑静でした。とても高級感溢れる通りで、道を掃除している人さえ威張っているような感じでした。



迎えてくれた夫人はとても上品で優しく、背が高くておしゃれなパリのマダムでした。さっきの運転手の他に料理人やメイドさんなどが数人いて、アテフがこれから住むという部屋に案内してくれました。屋根裏にありましたが、清潔で、天井の窓を開けると空が見えるステキな所でした。
「食事の時にはおりていらっしゃい」
「浴室の鍵はこれよ」
「わからないことは何でも遠慮なく聞きなさい」
「学校のこともこれから話しましょう」
と、とても親切に迎えてくれました。


なんという幸運!!
あの時、あの紳士と会っていなかったら??? 
一瞬の出会い!あと1分遅く着いていたら、彼は車に乗って出勤してしまっていたでしょう。


伯母さんに電話をかけてくれるだけでも親切なのに、身元保証人となり、これからのパリでの生活を保証してくれたのです。彼の計らいでヴァイオリンの勉強することが出来たのです。彼の申し出がなければ、エジプトに戻らなければならなかったでしょう。
結局、それから2年の間そこで暮らすことになるのです。実質の「パトロン」。ヨーロッパには現実にその言葉が生きていたということですね。


あとでよく見たら、乗っていた車はキャディラック。隣の家も彼のものでした。相当のお金持ちに違いありません。
彼はスイス生まれで、家は貧乏でしたが、単身パリに出てきて一代で成功し、多くの事業を手がけていたようです。志をもって一人でパリにやってきた少年に、自分の昔の姿を重ねたのかもしれません。


その家は、とても良い香りがしました。花の香りでしょうか。


シャワーを浴びて、屋根裏部屋にもどり、お父さんお母さんに手紙を書きました。アレクサンドリアで別れてから一週間。夢のような出来事がたくさん起こりました。いっぺんには書ききれない程たくさんの出来事。
「お父さんもお母さんもきっとビックリするだろうな~」
めまぐるしい一週間を思い出しながらペンをとりました。。。
                                (つづく)

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拝啓 お父さんお母さん

拝啓 お父さんお母さん

カイロの両親は待てども待てども連絡がないので、とても心配していました。アレクサンドリアの港で見送ってから何が起こったのか知るすべもありません。ましてやこれほどドラマチックな、奇跡のような一週間が13才の少年の身に起こっているなど、誰が想像できたでしょう?


当時は国際電話も簡単ではありませんでした。パリに着いた日は何が何だかわからない状況で、部屋に戻ると直ぐに眠りに落ちてしまいました。
でも、翌日、お父さんお母さんに手紙を書きました。一等船室で航海したこと、ベネチアでのこと、汽車のこと、伯母さんがいなかったこと、そして、親切なフランス人が、身元保証人になってくれたこと、etc.。


それから、パリの印象も。


「パリのリヨン駅から地下鉄に乗ったら、若い男の人と女の人が、人前でも情熱的にキスをしているんだよ。こんなのカイロでは見たことがないよ」


「街は信じられないくらいきれい! 通りを掃除するおじさんでさえ“Le Figaro”っていうとっても難しそうな新聞を気取って読んでいるんだよ」


不安と期待が入り混じる中、エジプトのお父さんお母さんを心配させないよう、こんなことを書いて投函したのです。
                        (つづく)

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パリでのレッスン開始

パリでのレッスン開始

オージェー氏と夫人とが身元保証人となり、入国管理局や大使館で書類を整え、学校はまずフランス語をマスターするためにアリアンス・フランセーズ(1883年創立の語学学校)に行くのがよいだろうということになりました。お母さんから習ったフランス語ではパリで生活していくには十分ではなかったのです。初めて行く所へは、ドライバーが連れていってくれましたが、次からは行き方を教わって地下鉄で一人で行きました。


今までは家族がいて、わからないことがあれば尋ねることも頼ることも出来ましたが、パリへ来たら、まるで大海原に放り出されたかようでした。手にあたるもの攫めるものにはしがみついていくしかないという感じ。


ヴァイオリンのレッスンも始めることになりました。ヴァイオリニストのMiguel CANDELA氏のところへ紹介状を持って訪ねていきました。 先生の自宅ではなく、 パリ14区にあるビル全体が学校のようになっているところでした。週一回のレッスンに通いながら、屋根裏部屋での練習に明け暮れます。何もかもが、カイロの街とは異なるパリ。その空気を吸いながら、水を得た魚のように上達していきます。この頃屋根裏で練習していたのがヴィターリ作曲「シャコンヌ」。だから、アテフのシャコンヌは特別なのです。
でも、屋根裏部屋で練習しすぎて、周りから苦情も出る始末。石造りの家は、響きもスゴいのです。音楽の学生がパリで暮らすのは本当に大変。そのことをCANDELA先生に相談したら、学校のスタジオで長時間練習してもよいことになりました。その成果もあり、6ヶ月後に先生がお父さん宛に書いてくれた手紙には「アテフは10年分くらいの進歩をしてますよ」と。。。
                       (つづく)

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パリ音楽院

パリ音楽院



                        (つづく)

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